028 宮森 敬子展 『表面なるもの』 04.23-05.15


宮森 敬子展 『表面なるもの』
2015年4月23日(木)–5月15日(金)

Keiko Miyamori Solo Exhibition
-Surface of Being-
Thu. 23 Apr. - Fri. 15 May, 2015

Open: Tue. - Sat. 11:00-19:00 / 日・月・祝日 休廊
※最終日は17時まで。
※4/29、5/3~5/6日 ゴールデンウィークのため休廊


■オープニング レセプション 4/23(木)18:00-20:00
プレスリリース[PDF 430 KB]
Exhibition Catalog (Japanese)
Exhibition Catalog (English)

宮森敬子は大学時代日本画を専攻、大学院卒業の年に現代絵画の賞である三木多門賞を受賞し渡米し、その後は文化庁在外研修員としてアメリカ東海岸フィラデルフィアにあるペンシルバニア大学に1年間在籍しました。日本に帰国した後、再び2000年よりフィラデルフィアにスタジオを構えて制作を開始、過去に上野の森美術館、損保美術館、水戸芸術館、宮城県立美術館などにおけるグループ展覧会に参加しています。作品は絵画、彫刻からインスタレーションに及び、現在はアメリカを基盤に活動制作をしています。
本展では、ドローイングを十数点、手透きの和紙にツリーロビング(フロッタージュ:木や石など、凹凸のある表面の上に紙をのせ、鉛筆やクレヨンなどでこすって模様を写し取る技法。)をほどこし、その和紙で木枝の表面を包んだ立体作品《BOX_ 》を数点展示いたします。ぜひご高覧いただきますようよろしくお願い申し上げます。



宮森敬子個展に寄せる

五十殿利治 (筑波大学教授)

文学ならば「読者」ということばがある。この読者には一般読者から専門家的な読者まで、多様多層であろうが、そもそも決定的なヒエラルキーがない。ひるがえって、現代美術、あるいは現代アートでもいいのだが、この読者にあたる人間をなんというだろうか。「観客」というと、演劇とかパフォーマンスの方がふさわしい。「観衆」というと、「大衆」を結びついて、個人的な営みとは別の位相を連想させてしまいそうだ。音楽の場合はどうか。観衆に対応するように、「聴衆」ということばがあるけれども、やはり「衆」という語が複数性と結びつくだろう。どうしても絵や彫刻の前に立つ私的、個人的な鑑賞を前提とした享受者を言い表す適切な語がなかなか浮かばない。
もっとも、読者という語で連想される黙読する読書行為が普及するのは、近代であることはよく知られている。それまでは音読が普通であった。いや近代の絵画も負けていない。明治初年の浅草の「油絵茶屋」では見世物小屋らしく口上があったらしい。時代をさらに下るなら、丸木位里、俊の「原爆の図」も作家自らの真に迫った絵解きがあった。

私は文学でいえば、宮森敬子作品の「いい読者」ではないのに、と冒頭で断りを入れようとしただけなのだが、それが迂遠な方へ逸れてしまった。作品を語る語の貧しさは端的にわが浅学非才の因果に帰着するだろうが、一方で作品を見る人間を言表する語ひとつ満足にみつからないというのは、個人だけの問題ではない、作品を生み出す作家ばかりに意を注いで、おそらく観者という語くらいしか用意できていない批評言語の歴史にかかわる。その貧しさを笑いたいわけではないし、笑えるような、安穏な高みに自分がいると勘違いもしていない(はずだ)。

宮森敬子作品についてなにかを書くのは、これが2度目となる。いまから20年ほど前のこと、1996年に水戸芸術館で当時の渡部誠一学芸員が情熱的に担当した展覧会『いばらきバイアニュアル ディアロゴス1996 現代性の条件』に、若手として宮森敬子と近藤歩を推薦した関係で一文を草することになって以来のことだ。執筆時、宮森は米国滞在していたが、まさかその後米国が拠点となるとは思い寄らなかったし、ましてその拠点もフィラデルフィアからニューヨークに転じて、今日まで制作を続けるとは想像だにしなかった。むろん宮森自身もそのような計画を入念に練り上げて渡米したわけではないだろう。

今度の個展は、ひとつの作品のまとまりとして、この20年とは何であったのか、そして何でなかったのかを、みせてくれるだろう、といえば宮森敬子には酷なことだろうか。無責任でそういうのではない。彼女の小さな個展を筑波大学の小さなギャラリーで見て以来のことだが、宮森作品が自ずと作家の現在(そして過去)を語ることを疑っていないからだ。
かつて20年ほど前に、私は宮森敬子紹介文をこのように結んだ――「私は予言者ではないので、宮森敬子の将来を占うことはしない。ただ、その「必然の方向」にすすむ、あるいは導かれるならば、表現者としての信頼を失うことはないということはできる。」(「「壁」から「門」へ――宮森敬子試論」、「ディアロゴス」展図録)
展覧会後、宮森敬子とはぽつりぽつりと出会う機会があった。つくばのわが家で、そして一昨年と昨年にはマンハッタンで。だから、私はこのことばが死語となっていないことを確信しており、その確信を今度の個展で来場した―「観者」ではなく―「観衆」と共有できればと願う。


作家ステートメント / artist statement
和紙で樹をくるんで、その上を手製の木炭でこする(ロビングする)と、それぞれの木肌のパターンが写しとられる。その和紙で身のまわりにあるものたちを包むと、たとえ違った場所やべつべつの種類の樹から写しとられたロビングを使っても、ある統一感が生まれる。
わたしの周りをぐるりと囲んだ、さまざまな表面を意識してみる。表面というのは、世界を経験する一つの手がかりとなる。
時間層と空間層の中の薄っぺらな表面を意識する。同時に、透明な、しかし存在感のある、わたしの周りの厚み、あるいは、数えきれない波となってわたちをつないでいる、その驚くべき速度を想像してみる。そうしているうち、わたしの表面は他の表面とつながって、その一部のようになる。それは体の内部にも浸透して、わたしは一つのつながりを感じることできる。
和紙の繊維と透明感、また木が焼かれていくにおい、人工的な透明プラスチックを使って制作をしている。また近年は、石ころや人工物の破片を集めている。うすっぺらな世界であっても、その表面にへばりついているわたしたちは、より深い、なにものかの一部であるはずなのである。

宮森敬子ウェブサイト
http://www.keikomiyamori.com
http://p.booklog.jp/book/96347





《Arizona Dream #3》, 2014
小枝, 石, 和紙, 木炭, 胡粉, 銅板, 鞣革
箱 13.7 x 19 x 2.8 (cm), サイズ組み方により自由




〒111-0052 東京都台東区柳橋1丁目9-11